同性愛の話。(派遣325日目 2019/02/21)
家庭教師のディオカシアと、
ひょんなことなら"同性愛"についての話になりました。
※個人的には"同性愛"という言葉があまりしっくりこないというか…。LGBTもしかり。人の生き方、愛し方を安易な言葉でカテゴライズしてしまうの、なんか、違和感…。便宜上、この単語を使わざるを得ないんだけど。
以前にも、モザン人と同性愛の話になったことがあって、
その時は、
「アメリカやイギリスにはゲイが存在するんだろ?!モザンビークには存在しないよ!」
「同性愛なんてありえない!」
という、
頭ごなしに否定する、
そもそも遠い国の(白人たちの)話であって、自分たちには関係ない、
って意見が多かった。
実際のところ、モザンビークにもアフリカにも同性愛者はいます。もちろん。
ディオカシアはどういう考えなのかなぁと思ったら、
「そうね、そういう人もいるよね」
と。
おぉ。理解がある??
と思いきや、
「でも、同性愛は神様が許さないよ。そういうことをする人はいるけど、するべきじゃない」
「なぜ神様は、男と女を作ったの?男と女がカップルになって愛し合うように、そのために男と女を作ったの。同性で愛し合うなんて、神様が望まないことはしてはいけない」
と、
真っ向から反論してきた…。
私「でも、同性愛の人たちの権利は守られるべき。宗教は宗教だけど。そういう人たちがいてもいいじゃない」
ディオ「宗教の問題じゃないわ。昔から決められた、神様が決めたこと。」
私「神様が望まないことでも、そういう人たちはいるよ!」
ディオ「そう、いるよ。殺人はよくないことだけど、殺人をしてしまう人がいる。それと同じ。してはいけないことをしてしまう人はいる」
私「いや、それとは違うって」
ディオ「同じよ!!」
結局、
どちらも引かなくて、
これ以上はやめましょ、
ってなって話は終わり。
私はなんて説明すればよかったのかなぁ??
ディオカシアのように、嫌悪ではなく、信条として同性愛を認められない人に対して、
なんて訴えればいいんだろう??
私個人の意見としては、
好きなように人を好きになっていいじゃん。
好きなように生きていいじゃん。
だってその人の人生だし。
という気持ち。
でも、
↑こう言ったところで、
「神様が、、、」という考えの人たちには聞いてもらえない気がする。
日本や先進国でさえ、徐々に徐々に理解されてきている段階。
当事者にならなきゃ理解できないなんて、哀しいな。
人間には想像力があるのだから、
「もしも自分がそうだったら…?」
という発想、思いやりをもてたらいいのに、と思う。
それは、日本人同士でも同じ。
たとえ受け入れられなくても、理解しようという歩み寄りの気持ちが大事なんじゃないかなぁ、
そんなことを考えました。
道と絵。