可視化される国モザンビーク(派遣482日目 2019/07/27)
モザンビークにいると、
日本にいた時には見えていなかったものが見えてくる。
例えば、
ごみ。
モザンビークには、整備されたごみ処理施設がない。
首都マプトでさえ、あるのはごみ処理場とは名ばかりの、
ひたすらごみを積み上げていくだけのゴミ山。
去年見学させてもらったゴミ山。
私が住むビランクーロでも、そこらじゅうでポイ捨て。
モザンに来たばかりの頃は
「汚いなー。残念だなー。やっぱり日本みたいにリサイクルや分別の仕組みができるのには時間がかかるんだなー。」
と思ってました。
そして、
私が自宅で出すごみも、
ゴミ山になるだけなんだ、
ただ目の前から見えなくなるだけで、
半永久的に残り続けるんだ…。
と考えてしまうと、
なんだかひどい罪悪感にかられるようで、
できるだけごみは出さないように生活しようと心がけるようになりました。
…はて?
当初の私は、
『モザンビークはごみ処理機能が整ってないから、ごみを捨てることに罪悪感を感じる』
と思ってたけど、
それって違うよな、と。
日本だって、毎日毎日出されるごみは、
焼却されたりリサイクルされたりするものもあるにせよ、
『この世から消えてなくなるわけじゃない』
ずーーーっと、残ってるんだ、ごみはごみとして。
見えないだけで。
『分別すればOK』
『ポイ捨てしなければOK』
なんじゃない。
ごみはごみ。
出たぶんだけ、環境へのダメージにはなってる。
むしろ、日本のほうが大量のごみがある。
過剰な包装、
賞味期限切れで廃棄される食品、
まだ使えるのに、すぐ買い換えられるモノ、モノ、モノ。
日本は見えないようになってるだけ。
ゴミ山が見えないだけ、
路上にポイ捨てがないだけ。
ごみ問題を真剣に考えなきゃいけないのは、
モザンも日本も同じ。
もうひとつ、
別の観点から、
日本では見えないこと。
「日本だって外国であること」
「日本人だって外国人であること」
モザンビークに住む人たちにとっては、(少なくとも私が住む町では)
外国人という存在がいて当たり前。
というか、
そもそも歴史的に、ほんの45年前まで別の国によって支配されていたんだから、
「別の国」の存在は漂っていて仕方ない。
小学校にいけば、ポルトガル語(外国語)を勉強する。
そして、隣の郡の人と話す時でさえ、
その外国語を使わなくちゃいけない。
(モザンビークの現地語は40種類以上存在しています)
日本という国がどんな国か知らなくても、
他の国ではどんな生活が送られているのか想像つかなくても、
物心ついた頃から、
いろんな人種、言語に囲まれて生活するというのは、
日本の数倍グローバルな環境だと思う。
見た目にも、
アラブ系の血が入ったモザン人もいれば、
南ア人やポルトガル人との混血モザン人もいる。
宗教だって、
クリスチャンもいればムスリムもいる。
日本にいたら、
そうはいかない。
未だに、地方や観光地以外にいけば外国人は珍しい存在だし、
言葉は日本語さえ話せれば事足りる。
テレビやネットで世界中の情報を知ることはできても、
「日本人と、それ以外」という構図からはなかなか逃れられない、
ような気がする。
日本人よりモザン人のほうが、
外国人に対して、
壁を作らないと思う。
それは、
多国籍、多言語が存在していて、
それが当たり前だから、
なんだろうな。
日本じゃ、
そういう感覚は、普通に生活してるだけじゃ、わいてこない。
世界にはいろんな人がいるんだよ、
日本の環境が当たり前じゃないんだよ、
ということが、
なかなか見えてこない。
家族みんな日本国籍で、
友達みんな似たような日本人顔で、
学校でも職場でも日本語さえ話せたら何の問題もない。
実は、
そういう社会こそ、
今や珍しいのでは……
と思ってしまう。
日本はもっともっと、
多様性に対して寛容になったほうがいいと思う。
というか、
もっとポジティブに考えたらいいと思う。
日本人は周りと同じことをするのが大好きだけどさっ笑
そもそも、
自分たちはマジョリティだと思ったら、
大間違いですよ、
ってね。
モザンビークにいると、
日本じゃ考えもしなかったことを考える機会がたくさんある。
日本に帰ってからもこういう気持ちを忘れずにいたいので、
書き留めておこうかなー、と思って書きました。
長々と…。
そして、とりとめない…
あしからず…